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百志(モモシ)

「自分」とは何かを考える。養老孟司の『「自分」の壁」を読んで

この記事では、養老孟司の『「自分」の壁』を読んで学んだ、「自分」についての彼の考え方の紹介、そしてそれに対する俺の見解などを書いてます。

思春期にありがちな「俺っていったいどうしたいんだろう…」って気持ちが強い人、自意識過剰が止められず日々が苦しい人、そういう人には刺さる事が書いてあると思うので是非!!

ポイント

・「自分」なんていうものは、地図上の現在地を示す矢印のようなものだ。

・「自分探し」なんてしてないで、「世間」とどう折り合いをつけるかが大事なのでは。

・「世間」なんどもぶつかって最後に残るもの、それが「個性」です。

はじめに

本題に入る前に、何故このトピックで記事を書くのか。どうして養老孟司の『「自分」の壁』が気になったのか。それを書きたいと思います。

俺には今まで生きてきて、「自分が分からなくなる」ということが何回かありました。強く感じたのは、大学生の時に派遣社員として仕事した時と、大学卒業後に会社員として仕事した時でした。

当時の生きる目標はとにかく成功すること、認められること。自分に対する尊重や優しさみたいなものはあまりなく、常に“いい人“を目指していた。

学校に行けば優しくて頼り甲斐のある人間を目指し、職場にいけば挨拶ちゃんとしていつも頑張る好青年。それ自体とても素晴らしいことなのだが、肝心の素の自分が育たなかった。

今現在、これではダメだと駄目な“自分“を受け入れる練習中。人前でもクソな人間性を表に出すように努めている。

(とは言うものの常識から外れている俺の人間性も最近では結構好きになってきた!

そんな中でブックオフで『「自分」の壁』に出会った。なんか有名らしい人、養老孟司が“自分“について書いている。自意識過剰な自分の性格を変える良いヒントを得られるかもしれない。そう思って本を手に取った。

自分は地図上の矢印である

彼は、『「自分」は矢印に過ぎない」』と表現している。動物が持っている「自分」という感覚、それは地図上における今何処に向かっているのか、ということを指し示す矢印のようなものだと言っている。

この説明だけでは意味が分からないだろう。養老孟司はこれを自分の仮説と脳科学における研究で説明している。

彼は疑問を抱いたらしい。それは、「動物は『自分』を持っているのだろうか」ということです。

人は当然のように「自分」を持っていると考えている。しかしながら動物はどうだろうか。彼らは自我を持って生きているのだろうか。そういう疑問を持ったそうです。

そこで彼なりにたどり着いた答えが、「自分」というものは地図上の矢印のようなものだ、ということです。

動物は根城を持っていて、食べ物を求めて巣に帰る。ミツバチなんかは蜜を採取して規則正しく巣に帰る。

人間だって一緒。自宅で生活をして、仕事があれば職場に行く、そして飲み屋に寄り道するかもしれないが、基本的には家に帰る。

このように動物には頭の中に地図がある。そして生物学的な「自分」とは、何処にいて何処に向かっているのかを示す「現在位置の矢印」ではないか、これが彼の持論です。そしてさらに彼は、「自分」だとか「自己」だとか「自意識」だとかを「今自分はどこにいるのかを示す矢印」くらいのものだと言って考えています。

脳の中の「自己の領域」について

また彼は、それを裏づける脳の研究があるとして、アメリカで脳神経解剖を研究している女性の学者ジル・ボルト・テイラーさんの例を挙げています。

彼女は37歳の時に脳卒中を起こして左脳の機能を破損、「自己の領域」を決めているとされる「空間定位の領域」が正常に機能しなくなった。そこで全てを記録した。脳の機能に一部が正常に動作しない時の体験を記録したのです。

そこで彼女が感じたのは、自分の体が個体ではなく液体になったようだったという感覚だそうです。

また養老孟司は以下のようにも説明しています。

たとえば目の前に山があったとします。頭の中に山の姿がある。そこで「自分」という枠を取ってしまったら、山と自分が一体化するのです。山の映像は頭の中にあります。それは自分の一部です。その山は自分の外部にあるものだ、というのは「自分」という枠を意識できているからです。

自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きをしているからであって、「矢印はここ」と決めてくれているからです。その部分が壊れてしまえば、目に入るもの、考えていることも全部、脳の「中」にあるわけですから、自分の「中」にあるのと同じです。区別はつきません。世界と自分の境目がなくなっている状態です。

※引用『「自分」の壁』、養老孟子(著)、株式会社新潮社

「自意識」過剰な人の矢印

ここで一旦、彼の見解について考察したいと思います。

まず、『「自分」は矢印に過ぎない」』という考えについてです。

普通に面白いなぁと思いましたし、「自分」を意識の方向性と捉えて「矢印」と表現しているところは上手いこと表現するなぁと思います。

「自意識」過剰なんていう言葉、症状⁇があります。それについて以前、意識の方向が自分へと向き過ぎている状態である。と聞いたことがあります。

養老孟司の例えでいうとどうなるのでしょうか。地図上で現在位置を指し示す矢印が自分を向いている。ん〜、なんだか分かりません。目標に向かって伸びる矢印が常に自分に向いてしまっている。つまり進みようがない状態なのではないかと思います。

案外上手いこと解釈出来ているかもしれません。恋愛なり友達付き合いなりで進みたい方向があるのに「自分」という矢印が自分に向き過ぎていていつまでたっても目的地にたどり着けない。

好きな子に告白したくても、その子に「自分」が嫌われるかもしれないことを気にし過ぎて告白という目標を達成出来ない。

ここまで整理すると、養老孟司の考えが非常に的を得ていることが分かる。

また彼が例示したアメリカの脳研究の話にも触れておきたい。「空間定位の領域」についてだ。

この力をざっくりとだが、自己と外部とを区別する能力と捉えた。

また「自意識」過剰に紐づけるが、「自意識」過剰な人、または人見知りな人はこの能力が弱いのではないかという憶測を持った。

日本の教育なり道徳では人に優しくあることが美徳とされる。また人を傷つけてはいけない。これを身につけるには、「相手の立場になって考える」ことが必要になる。

あたかも相手の身になったつもりで考える、のである。俺の予見では、この行為は「空間定位の領域」の脳の機能を弱くする。

結局は、相手がこう感じるであろうという予想した相手の感情も、自分の中にあるのである。それを自分のものなのか相手のものなのか分からなくしてしまう。そして相手が「自分」を嫌うであろう、怖がるだろう事を自分の中で膨らまし、自分の感情の一部にしてしまう。

「自意識」過剰で人見知りな俺は昔から優しい人間になるよう育てられた。そのおかげで相手のことばかりを考えて生きてきたのだが、それが原因で「空間定位の領域」の機能が弱いのかもしれない。

自己だの個性だのどうでも良いのでは?

養老孟司は「自分」だとか「自己」を重要視しない言葉を述べています。

「自分」とは地図の中の現在位置の矢印程度で、基本的に誰の脳でも備えている機能の一つに過ぎない。とすると、「自己の確立」だの「個性の発揮」だのは、やはりそうたいしたものではない。そう考えた方が自然な気がしてきます。

※引用『「自分」の壁』、養老孟子(著)、株式会社新潮社

ここまでの話では自己にとらわれすぎる事はよろしくないような気がします。けれども先述の養老孟司の言葉をそのまま飲み込むことも出来なかった。それは自分が個性的な人間である、ユニークであるということを強く自覚しているがためかもしれません。

また彼は「自己の確立」や「個性の発揮」について日本の文化とアメリカの文化の側面からも考察しています。

日本の文化においてはそういったものが重要視されてこなかった。それに対してアメリカの文化では自己や個性を確立する文化である。そういう論調でした。

養老孟司もまた自意識過剰である

その考え自体に特に否定はありませんが、ここで使われた例はなんとも納得のいかないものだった。

アメリカは、「あなたはこれか?あれか?」と選択を迫ってくる文化を持っています。それに常に答え続けるとは、どういうことか。つまり答えるうちに、「自己」「個性」を作って行かざるをえないのです。

※引用『「自分」の壁』、養老孟子(著)、株式会社新潮社

彼はこれを説明するために、「ビーフにしますか?チキンにしますか?」という質問を例に挙げる。ここで「チキンでお願いします」と発言する事は、「私はチキンを食べる人間なのだ!!」という意味合いであり、それと同時に個性の構成要素が確立されるものとした。

ん〜、それはそうなのだけれども、食事をするときに、何を食べるのかを聞かれて、何を食べるのかを答えているだけである。確かに二者択一で考える、もしくは質問するという文化をアメリカ人は持っているかもしれない。だがしかし、これを個性を尊重する文化と捉えるのはいささか雑な考え方のような気がする。

この文化から考察できる事は、アメリカ人の発想がよりシンプルなものであること、また相手に自分の意思や立場を明確に表明することで相手を思いやっていると言うことだと思う。

質問を受けたらシンプルに返す。そして自分は何者なのか自分はどういうことを考えそういうものを求めているのかを的確に表現する。それがお互いの関係を円滑なものにするということを十分にわかっているために根付いた文化である。やはり個性の問題でとらえることではないと思う。

また、そもそも養老孟司が個性などはそう大したものではないと考えているにもかかわらずずいぶん自意識過剰だなと考えさせられる文言も見受けられた。

日本はどうか。どこかにお邪魔して座ると、黙ってお茶が出てくる。もちろん近頃では「お飲み物は何が宜しいでしょうか?」と聞いてくることもあるでしょうが、聞かれないことが多い。

黙って出されて、黙って飲む。そういう人が大半です。そこで「私はコーヒー派なので、お茶は要りません」と我を張る人は、大抵嫌がられます。めんどくさい奴だと思われることでしょう。

※引用『「自分」の壁』、養老孟子(著)、株式会社新潮社

いろいろ思うところはあるが、2つだけ言っておきたい。

まずこれはどこのシーンのことを言っているのか。例えば友達の家だろうか。だとしたらコーヒーが出てくるのかお茶が出てくるのかはあくまでも友達の裁量である。聞かれた側がそもそも選択する権利を持っているかどうかを考えるのはナンセンスである。横暴だ。

そして友達の家だったとして、じゃあ友達の家で「ビーフにしますか?チキンにしますか?」と聞かれるかどうかだ。大抵そんなこと聞かれない。大抵のアメリカ人は友達が自宅に来たとして友達に料理を振る舞う際におそらく自分が出せるものを出すだろう。好みを聞く程度であれば日本人だってやる。

もう一つ言いたいのが、養老孟司さん、それこそ「自分」を意識していないですか、ということである。自分の飲み物について、何が飲みたいかを表明するだけである。「めんどくさい奴だと思われることでしょう。」そんなことを考える必要なんてないし、それこそナンセンスだ。

アメリカ人は個性的だなんて養老孟司を含め多くの人が発言しているように思える。俺はいささかこの点に対して懐疑的だ。意外とだが捉え方によってはアメリカ人は全く個性がない。個性というよりも「自分」という矢印がどこに向いているのかを強く表現しているだけである。「自分」という存在を彩りを持って脚色する癖が強いのはむしろ日本人の方だと思う。この点についてはまた機会があれば触れたいと思う。

「個性」とは、本当の「自分」とは

世間に押しつぶされそうになってもつぶれないものが「個性」です。

結局、誰しも世間と折り合えない部分は出てきます。それで折り合いないところについては、ケンカすればいいのです。それで世間が勝つか、自分が勝つかはわかりません。でも、それでも残った自分が「本当の自分」です。

※引用『「自分」の壁』、養老孟子(著)、株式会社新潮社

面白い発想だなぁと思う。自分のベースを社会に置き、社会に染まり切らない部分がその人の特徴になるのだ、そう言っている。

この理屈から言えば、オレは日本の社会の枠組みにおいては物凄く個性が強いのかもしれない。社会に上手く身を置けていない感覚がある。それは俺の何かが上手く機能していないからか、それとも俺の能力が他の日本人よりも高過ぎるからなのか、まだ分からない。ただ人生を穏やかに歩んでいくのに、個性だとかプライドだとか、実はそういうものは要らないかもしれない。そう思えた。

本来は、人生はどうやって生きていけばいいか、といったことについての世界の基準、ものさしがあるべきなのに、それが揺らいでしまっている。そのくせ「個性を持て」だから、若い人がわけもわからず「自分探し」をしたがるというのが現状です。これは気の毒に思えます。

実際には、「本当の自分」なんて探す必要はありません。「本当の自分」がどこかに行ってしまっているとして、じゃあ、それを探している自分は誰なんだよ、という話です。

※引用『「自分」の壁』、養老孟子(著)、株式会社新潮社

少しだけ耳が痛い。というのも俺の「自分探し」がここ数年、なかなか終わらずにいるからだ。会社員を経験して海外にも行って日本に帰ってきてフリーターになって、そんで思うところあって自己啓発に勤しんで「いつまでも悩んでいるからダメなんだ」という意識が自分に常に向いているから本当に「ダメ」な気がして、それが目につきさらに満足できる自分を探して「自分探し」を繰り返す。

俺は自分探しは必要だと考える。自分がしたいこと、自分が好きなことを探す、その過程を経てその人の人生の方向性を決めると考えているからだ。ただし養老孟司の言葉からは、「自分なんてそこにいるだろ!?もっとそこに集中しなさい!!」と言っている気がする。外ばかり見て不安定な状態で「悩んで」ばかりいるのではなく、そこに今いる「自分」をあるがままに受け入れ出していくことこそが「自分探し」のゴールとなるのかもしれない。そう感じた。

養老孟司の社会が不安定だから若者も不安定になるんだという考えには全く持って同意である。ピーマンが食べれない大人が子供にピーマンを食べれと言う。社会のルールを守れない、もしくは見て見ぬ振りをすることが当たり前な人間ばかりが今の日本の社会に溢れかえっている。そんな中で機能する「軸」などありはしない。アメリカであればキリストの教えが軸になって、それを守ることを前提に社会が動く。日本にはそれがない。下手に集団主義に個人主義をぶち込んで来た。今の日本社会で生きづらさを感じるのは当然なのかもしれない。

そして社会などというものは、所詮、人と人なのである。ピーマンが食べれない大人は子供に、「一緒にピーマンが食べれるように頑張ろうね」と手を取り合えば良いのにと思う。

おわりに

結局のところ養老孟司は「自分」について何を言いたかったのか。それは繰り返しになるが、「自分なんて意識の矢印のようなものでしかないでしょう。だからそんなものに躍起になって固執するのはやめなさい。そして世間との交わり方を学び、世間と交われないあなたの個性を見定めなさい。」ということだと思う。

だからなんだとここで答えを出そうとは思わない。ちゃんと地に足つけ生きていく。いつまでも矢印どこに向けるか迷ってないで、自分の存在を認めて前を向く。可能な限り世間と折り合いをつけながらもそれでも残る自分の強みと弱みを認める。これこそが「自分探し」の終着点のような気がした。

「自分探し」が終わる気がした。

参考文献・参考Webサイト

【参考文献】
・『「自分」の壁』、
養老孟子(著)、
株式会社新潮社(出版)

【参考webサイト】
なし

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