こんにちわ。百志(モモシ)です。
この記事では、僕が約10年間苦しんだ社交不安障害について、僕がどんな経験を経てそれを発症したのか、どんな初期症状に苦しんだのか等々を書いています。
人によっては、幾つか共感できたり、へっ!そんなもん僕に(私に)比べたら大したことないじゃん!、ってなるかもしれません。
何にせよ僕が約10年間、社交不安障害を苦しんだのは事実であり、いろんな冒険と挫折、出会いと助け、そして最後には自己鍛錬によってそれを克服し、今の僕は楽しく…、というよりは毎日しっかり地に足つけて生きることが出来ているわけです。
今僕は(俺は/私は)結構幸せです。
記事の読者が同じような障害を克服したりしてくれることを願って僕の経験をブログにまとめておきたいと思います。
社交不安障害の発症の経緯
僕がどういう経緯で社交不安障害を認知したのかを書いて行きたいと思います。
僕が社交不安障害を認知したのは、高校三年生の時でした。
あの時は思春期の真っただ中にあり、女子の存在が気になりだしたり、クラスでの自分の立ち位置とか友達との距離感を気にしだしたり、何より僕は新潟県でもトップレベルの進学校に在籍していたので、猛烈な受験勉強をしている中にありました。
そんな中、僕はものすごく些細なことで社会不安障害を認知します。
それは、確か…なんですが、教室の扉を開けたところ…、入り口を進もうとしたら、たまたまバスケ部の好青年と鉢合わせて驚いた、という出来事です。
まあそんなの普通に学校生活を送っていれば、というよりも何かの入り口を通ろうとして誰かとぶつかりそうになる、といったことなんて日常茶飯事、コンビニでも実家でも起きるようなことなのですが、その時感じたのは、驚きと、謎の恐怖でした。
たまたま教室の入り口を境にバスケ部の好青年と対峙してしまい、一瞬だけ目と目があっただけ…。おそらく彼は僕に対して別に何にも思っていない…。僕も別に何かを気にすることは無い。なんてことないアクシデントなのに、僕は謎の恐怖を、強い恐怖を感じました。
そこから僕は、僕の歪んだ認知を強めることになります。それは、
『皆が出来ている(受け入れている)ことをできない僕は(俺は)おかしいんだ(壊れているんだ)』
みたいな感情です。(今こうしてブログの記事にするために整理して書いていても、とても恐ろしく、そして歪んでいたなあと思う…。)
クラスの人気者でみんなから慕われているバスケ部の好青年を恐怖してしまうなんてきっと僕はおかしいんだ…。考えてみたら僕はあのサッカー部の青年や野球部とかのいわゆる体育会系の人が苦手だ。なんかチャラそうな人、強そうな人、ズカズカものを言ってくる人が苦手だ。なぜだろう、なんだか怖い。
みたいな思考、感情をどんどん心の中に高めていったのでした。
そして先にも述べましたが、僕が通っていた学校は新潟県でも有数の進学校でした。「偏差値の高い学校に行くことが良いことがあり、偏差値の低い学校に行くことは悪いことである」みたいな風潮がありました。
厳密にはそんなことは当然ないんですけど、当然、学歴社会という言葉があるくらいです、東大京大と言わなくても、東北大学、北海道大学、金沢大学等々の大学を目指すと言えば、「おおぉ~、あいつすげーなー」となり、もしも私大に進むとしても、みーんな早慶上智狙い。日東駒専は基本的には滑り止めで、ましてやFランクの大学にとてもじゃないけど入れない…、みたいな風潮が流れていました。(今考えるとこの風潮、本当によくないと思う…。)
そんな中、私はどんどんストレスを溜めていき、心の奥底に潜めた歪んだ認知が強まっていたのもあり、徐々に精神的に壊れ始めます。
その特徴が如実に現れたのが、学習室でした。
私の母校では受験生向けに一部の特殊教室を受験生用に学習室として放課後など開放していたのですが、そこで勉強をしていると、私は精神的に嫌な感情を生み出すのでした。
具体的に言うと、周囲の人、音、そして自分の音、その音の周りへの影響にものすごくセンシティブになるのです。
隣の生徒がノートに単語を書く「サッサッサッ」という音、後ろの生徒が学校特有の椅子を引く時の「ヒーヴボォーっぅぅ」という独特な音、ページのめくれる「ペラペラ」という音、音、音、音、音、音、音、音、音、音、音、音、、、、、
自分の音も気になりだしました。何も勉強の音だけじゃありません。緊張からか自分の呼吸の音がやけに大きくなっているような気がしだす。しまいには唾液が多く出始めてそれを口に溜めては「ゴクリっ」と大きく音を立てて飲み込む。自分の中で嫌な思考が走る。「俺、今、変なでっかい音をたてたよな…。隣の人、気にしてないよな。勉強の邪魔してないよな」とか誰も気にしていないことを自分の中で気にしだしてしまう。
自分にとって都合の悪い方向へと思考することをやめれずますます無限のループにはまる。例えばうっかり消しゴムを落とす。そして消しゴムを拾う、拾うには椅子をずらし腕、肩を地面の方へと落としていき、そして腕を消しゴムの方へと伸ばしていく。消しゴムの「コロっコッロ」という音に椅子の「ズズブボ」という鈍い音に服の擦れる音に俺の少し乱れた呼吸音が出ていく。
そんな絶妙なタイミングでたまたま後ろの席の生徒がいきなり席を立って教室を出ていったらもう大変です。「俺のせいかな。俺のせいかな。俺の出した音がうるさかったのかな。ああやっちまったかな。ああああ」ともう完全に勉強どころではなくなる。
そんなこんなで毎日苦しんでました。病んでました。当時結構偏差値が高かったのですが、次第に勉強に集中できなくなり、例えば、他の人が1時間かけて学習範囲を20ページ終わらしたとして、僕は2,3ページしかできない、みたいな状況の日が続いたりしました。時には学習室に入って20分モゾモゾして何も出来ずに終わり部屋を出ただけ、といった日もあったと思います。
体育会系の人が怖い、そして周りに人がいると何も出来ないという状況が高校3年生の半ばで続き、「自分はおかしい」という認知を強めました。そして母親に相談して、病院に行くことにしました。
母親は「そんなの気のせいだと思うけどねー」と他人ごとのような見解を僕に言っていたと思います。僕は家族の事情も残念なものだったので、今となってみれば、結局、僕が社交不安障害を患うことになるのは必然だったように思います。
そこで新潟県の本当にど真ん中!とも言える場所に位置するメンタルクリニックに行くことになります。
そこで幾つかの問診を受け、先生の診察を受け、薬を処方されます。少し引っかかっているのは、診察時の先生の言葉で、「社交不安障害だと思います。」という表現です。「だと思います」…、決して断言しないこの言い回しは、後に通うどこの心療内科でもこの言い回しを聞くことになります。社交不安障害は病気では無く、"それっぽいもの"である、あくまでも障害やその人の傾向であるという理解を、もっと早くしておくべきだったのですが、まあ、当時の僕はそれが出来なかったわけです。
ここから僕は、「俺は社交不安障害なんだ。機能が欠損しているんだ」という自分への自己イメージを抱いたまま、約10年の人生を歩むことになります。
1〜2ヶ月に一回は心療内科に行き、薬を処方してもらいながら、
高校生活を終え、
大学生をやり、
バイトをして、
何回も心壊れて、
そのまま会社員もやり、
"自分探し"と称してオーストラリアにワーホリに行くのでした。(あと、エアーズロックの上で寝るのが夢でしたw)
ではでは、 ー
この記事は、「僕が社交不安障害を発症した経緯と初期症状」として、内容はここまでとしたいと思います。
次回は、僕が社交不安障害を約10年間苦しんだ上で経験した諸症状や辛かった経験について書いていきたいと思います。
では、 ー
僕の文章を読んでいただき、ありがとうございました!
おわりm(_ _)m